ガバッと跳び起きた。
すげー夢だった。
真田零の実家のベッドの上で、呆然と夢の内容を振り返ってみた。
「零ちゃん、私のことはいいから! 危ないわ、帰って!」
高い崖の上で、縄でぐるぐるに縛られた千波が、崖下の俺に向かって叫んだ。千波の隣には、牛の角がついた兜に、厳めしい甲冑を身につけた魔王みたいな元親父がいる。親父は、崖に向かって、ドンと千波を突き飛ばした。
「きゃあっ」
「千波ッ!」
崖っぷちで悲鳴を上げた千波に、俺は慌てて叫んだ。だが、次に続いた奴らの言葉に力が抜けた。
「おやめになって、お父様!」
「ははは! よいではないかよいではないか!」
お前ら、お代官様と町娘かよ。
そこでふと、最近元実家に行ったときのことを思い出した。
あれは飯を食っていたときだ。親父のおかわりの飯をよそい終わった、フリフリエプロン姿の千波が茶碗を手にテーブルに近寄ると、親父がその細い腕を、それはもう元は自分の腕だったとは思えないくらい細くなっていた腕を、グッと引っ張って膝の上に乗せたのだ。
「きゃっ お父さんやめて。零ちゃんがいるんだから」
いなかったら問題ないんかい。
思わず内心で突っ込んだことは言うまでもない。声に出せなかったのは、口いっぱいにご飯を頬張っていたせいだ。このときほど突っ込めなかったことが悔やまれたことはない。
「いいじゃねぇか。やっぱり娘は膝の上に乗っけるモンだよな」
やに下がった顔で言う。おい、クソ親父。俺はテメェの膝の上に乗せられた記憶なんかないぞ。
「もぅ。お父さんたら」
頬を赤らめて呟く千波の声はすんごい甘い。俺、邪魔者ッスか。異物ッスか。
うまい千波の手料理も、味噌汁で胃に流し込み、速攻で帰ったっけ。
さて、魔王のコスプレをした親父と、縄でぐるぐる巻きの千波。これはアレか。なんかのプレイなのか。とすると、千波の「私のことはいいから」というのは真実で、放っておいた方がいいのか。
帰ろうかな、と思い始めたら。
「よォ、勇者。お前、こいつを助けたいか」
え。俺の役割、勇者なの?
「あぁ。うん。まぁ助けたい、かな」
「なんだお前、歯切れが悪ィな。男ならはっきりしやがれ」
親父の中で、俺はもう完璧に男なのか。元実の娘だっつーのに。
「はっきりしねぇなら、落としちまおうかなぁ」
つまらなそうに言うと、親父は千波をさらに崖へと突き飛ばす。悲鳴をあげる千波。親父はやると言ったらやる危険極まりない男だ。
「わかったから! 助けたい。やめてくれ」
叫ぶと、親父はにやぁ、とそれはそれは薄気味悪く笑った。
「物事には代償っつーもんが必要なんだよ。人魚姫は人間になるために声をなくした。千波を助けるために、お前は俺に何を寄越す?」
「何でもやるよ。声でも指でも持って行け」
人魚姫とはまたずいぶん懐かしい話を出してきたもんだ。昔、よく親父が話してくれたっけ。俺はあんなに男前な生き物を知らない。すげぇよな。人間の王子に兄貴を殺され、人魚姫は仇をうつために声を失ってまで地上に行くんだよ。覚悟を見せるために小指まで落としたんだったか。王子には婚約者っつー隣の国の魔女がついているんだが、その魔女にボロボロにされながらも、最後はドスを向けたものの王子と差し違えて泡になっちまうんだ。人魚姫っつーか、任侠姫だよな。姫なのに男気溢れるすごい奴だ。
「よく言った。後悔しねぇな?」
「しない」
「ほぉ。お前の髪を寄越せと言っても?」
「髪? いいぜ。やるよ」
「本当にいいのか。一生ツルッパゲだぜ」
「口説い! ツルッパゲだろうがなんだろうが好きにしろよ。俺は助けると決めたんだ。一度決めたら後悔はしない」
言い返すと、親父は盛大に笑った。
「それでこそ俺の息子だ!」
もはや、俺が娘であった過去は、親父の中ではすでにないものにされているのだろう。いや、むしろ元から息子と思っていたに違いない。
「ならいくぜ」
親父が俺に掌を向けたそのとき。
「待ったッ!!」
俺の背後からストップをかけられた。
「おう。詩英」
見慣れた学ラン姿の詩英が、息も切れ切れに、必死な形相で立っていた。軽く声をかけると、詩英はキッと親父を睨み、叫んだ。
「俺の髪も半分あげますから、零の髪も半分だけにしてくださいッ! 零と一緒なら、俺はバーコードでもいいッ!!」
えーッ
「いやいやいやいや、詩英ちょっと待て。お前のその顔でバーコードっつーのはいくらなんでも犯罪というか」
「零がツルッパゲなんて神への冒涜だ!」
神!!
「零は俺の大切な友達だ! 友達が大変な道を選ぼうとしているときに、知らん顔できるわけないだろ!」
まるでチワワのように食いついてくる詩英の男気に、止めるのも忘れて感動してしまう。もういっそ、詩英と二人ならバーコードでもいいかも。
だが、再び待ったが入った。
「加村くんにだけいいかっこをさせるわけにはいきません」
「たりめぇだ。親父さん、俺の髪もやるから、M型ハゲくらいにしてくれよ」
「志賀師範。僕の髪も差し上げますので、頭頂部の薄毛程度にしていただけませんか」
どんどん髪が残る方向に交渉を進めるのは、胴着姿の殿村と千堂だった。
なんて友達甲斐のある奴らなんだ、と感動する反面、みんな薄毛の姿を思い浮かべると、申し訳ないが笑えてくる。
「うん。お前らとなら、アートネイチャー通いも楽しそうだ」
ありがとう、と伝えると、覚悟の笑みを返された。だが。
「いやあぁぁぁぁッ」
崖の上から悲愴な悲鳴が響いた。ぐるぐる巻きの千波だ。何があった、と見遣れば、千波は青ざめた顔で言う。
「美形が揃ってハゲ!! そんなの絶対いやよ! それくらいなら自分で」
千波の体に、ググッと力が入る。まさか。
巻かれている縄が、ミシミシ音をたてた。そして次の瞬間。
「抜け出せるわ!」
ブチィッと縄を引きちぎった。崖の上に仁王立ちするその姿はまさに野獣。と、いうか。
「み、美織叔母さ、ん?」
面差しは千波によく似ているが、醸し出す雰囲気が野獣そのもの。
さっきまでか弱いヒロインそのものだったのに、まるで女王のように俺を見下ろし、ニヤァと笑った。ヒィッ
この笑い方には覚えがある。しょっちゅう俺を扱きに来る彼女に「早く帰りやがれクソババァ」と心の中で思ったときに向けられたものと同じ種類だ。
「なにか言いたそうだなぁ、千波。言ってみろよ」
ま、間違いない。
「ないッス! お久しぶりッス、美織師範!」
押忍ッ と全身全霊で礼をとる。
「ああ、久しぶりだな。どうだ、その体は。壱也そっくりの美貌に、全身バネみたいな体だろ」
やはり美織叔母は知っていたのか。零の体のすごさを。
零の体は、今まで鍛えていなかったのがもったいないほど頑強でしなやかだった。この体になってから半年。今では男だということもあるが、千波だった頃以上に鋭さと強さが身についている。あまり言いたくはないが、天才というのはこの体のことを言うのだろう。
「お前らは体を交換した方がうまくいくだろうと思っていたんだが、その通りだったな」
「美織師範が俺達の体を入れ替えたんスか」
「んなことできるわけないだろうが。私は人間だぞ。そんなことより、久しぶりに試合しようぜ」
息をのむ。美織叔母の試合とは、死合いと書く。
こ、殺される。
一歩下がると、やじゅ、美織叔母は前に出る。いやいやいや、叔母さんそこは崖ッスよ。
まさかの予感に、怯えた眼差しを向けた次の瞬間、美織叔母は高い高い高ーい崖の上から跳んだ。
「人間じゃねぇだろッ!! ぎゃあぁぁぁぁッ」
恐怖に叫び。
気付けばベッドで、跳び起きていたわけだ。
ダラダラと、それはもう酷い寝汗をかいていた。
「……なんて夢だ」
バクバク弾けそうな心臓を押さえる。こんなに怯えたことは、近年じゃ稀だ。
「ったく。何だってこんな夢」
ふとカレンダーを見て気付く。お盆、か。
お盆といえば、死者が還ってくるという、あなたの知らない世界的な恐怖の行事だ。今、この瞬間に、隣にやじゅ、美織叔母がいる可能性がある、のか?
冷たい汗が背中を流れた。
ふと、隣の部屋で眠る千里さんがいることに思い至った。さすがのやじ、美織叔母も、千里さんの傍で何かしでかしたりはしないはずだ。しないだろう。しないと信じたい。よし。
恐怖にガクガクと震える膝を宥めながら、部屋を出る。トイレの花子や口裂け女、リングの貞子だって怖くはないが、この恐怖だけは耐えられない。
数十秒後、俺は穏やかに眠る千里さんに襲撃をかけたのだった。
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